2003年12月  JEITAニューヨーク駐在・・・荒田 良平

3年間を振り返って 〜ITバブルの崩壊とその清算、そして正常化〜


はじめに

今月は、私の駐在員報告の最終回ということで、2000年末の着任以来の3年間における米国のITを巡る動向を簡単に振り返るとともに、日米の違いについて私の個人的な所感をいくつか述べさせていただくこととしたい。

1. 3年間のIT動向

米国のITを巡るこの3年間は、「ITバブルの崩壊とその清算、そして正常化」の3年間であったと言えるであろうか。

私が着任した2000年末時点では、一部のドットコムの破綻が伝えられてはいたものの、それはあくまでも一部ドットコムの脆弱なビジネスモデルの問題であり、経済全体を覆うようなIT不況の第一幕だという認識はまだ希薄だったように思う。しかし、2001年になって新興通信事業者の破綻が相次ぐようになって、これが株価バブルを背景とするドットコム・バブルとテレコム・バブルの崩壊という深刻な事態であるという認識が広まった。これに追い討ちをかけたのが2001年9月のテロ事件で、その後エンロン事件に端を発した不正経理問題がグローバルクロッシングやワールドコムに波及していった。

こうした一連のIT不況下で、ITのサプライサイドであるハードウェア、ソフトウェア、ITサービス業界は、程度の差こそあれ総じて市場の落込みや財務状況の悪化に苦しむこととなった。しかし、通信事業者が引き続き音声通話の漸減とデータ通信の設備過剰という問題を抱えていることを除けば、ITバブルの清算は総じて大胆かつ速やかに行われたと言えるであろう。民間IT投資の回復やイラク攻撃終結を受けて2003年春から株価もかなり回復してきており、もちろんバブル期の熱狂には程遠いものの、有望なドットコムのIPOが久しぶりに行われるといったニュースも聞かれるようになった。

一方、ITのディマンドサイドにおけるIT利用は、バブル崩壊にもかかわらず着実に進展してきたと言うことができよう。もちろん、民間IT投資は一時的に落ち込んだが、これはドットコムや通信事業者による一時的な投資バブルの反動という面が大きいと見ることができる。ハードウェアの継続的な価格低下もあって、実質値でみれば民間IT投資は既にバブル期を上回る水準にまで拡大しており、このIT利用の拡大が、IT不況下でも米国で生産性が上昇し続けるという現象を惹き起こしていると言われている。また、例えばB2Cの電子商取引がIT不況下にあっても前年比2ケタ増の成長を続けたことも、IT利用拡大の一面をよく表していると言えるであろう。

この3年間のIT関連政策動向に目を転じると、様々なIT振興政策を華々しく展開した前クリントン・ゴア政権とは打って変わって、2001年初頭に誕生したブッシュ政権はITという切り口での政策展開はほとんど行わなかった。IT関連の政策としては、行政改革により小さな政府を実現するための電子政府の推進、国土安全保障の一環としてのサイバー・セキュリティの確保、テロリズムとの戦いを優位に進めるためのIT R&Dの推進などが着々と進められたが、これらはIT振興政策というよりは他の政策目的を達成するためのIT関連政策という位置づけである。ITインフラ整備は、政策という形ではなくベビーベルの施設開放義務緩和に関するFCC新規則制定という形での対応が図られ、2003年2月に一応の決着を見たのであるが、これはFCC委員長が反対した案が同じ共和党系の委員の造反により一部採択されるというドタバタの決着であり、行政訴訟等により今後もしばらくは混乱が続きそうである。

また、ITの技術動向を見ると、この3年間は基本的には、1990年代から始まったインターネットの普及に伴う、クローズドなメインフレームやクライアント/サーバー型システムからインターネットベースのオープンなシステムへの移行、音声・画像・データすべてを扱う統合化されたIPネットワークの構築といった大きな流れの中にあり、その中で無線LAN、Linux、P2P、グリッドコンピューティング、ウェブサービスなどが注目を集めた。しかし一方で、初期の熱狂から醒めたこの3年間では、こうした新技術の実用化・普及のためのビジネスモデルや、セキュリティ、プライバシー、デジタル著作権といった課題もクローズアップされ、いわゆるIT革命が一朝一夕には実現しないという現実が顕になった。

このように振り返ってみると、この3年間にイベント等で何度か耳にした「バブル崩壊はIT革命の“始まりの終わり”に過ぎない」という言葉が改めて思い起こされる。最近のIT業界の業績回復や無線LAN、Linux等の新技術の盛り上がりは、持続的で堅調な成長の期待できるIT革命“第二章”の始まりであると見ることができるのではなかろうか。

2. 日米の違いに関する所感

私自身は過去1993〜1994年に1年間米国に住んだ経験があったため、米国式の社会システムや米国人の行動様式などについてはある程度の認識はあった。にもかかわらず、この3年間米国のIT動向を見てきた中で、日米の違いという観点で多々感じるところがあった。ここで、その主な点について触れさせていただく。

多様性を持った市場

言い古されていることではあるが、やはり米国を見る際にこの市場の多様性については常に念頭に置いておく必要がある。

ここで言う多様性とは、単に様々な人種がいるという意味に留まらない。例えば人種一つとってみても、ニューヨークのように「何でもあり」の都市、マイアミのようにヒスパニックが多い都市、中西部の白人しかいないような都市など様々である。外国生まれの人口比率でみても、マイアミでは5割を超えており、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロスアンゼルスなどでも4割前後の人が外国生まれである一方、もちろんその比率が1割に満たない大都市も多い。必然的に、宗教や思想、価値観や嗜好についても多様な都市もあれば均一な都市もある。貧富の差は総じて大きいが、これも都市によって違いがある。米国は一般的には車が無ければどこにも行けない社会であるが、ニューヨークのように車が無くても何ら問題の無い都市もある。都市によって地理的・気候的条件が大きく異なるのはもちろん、州によって規制まで異なっている。つまり、よく言われるように、「アメリカとは」「アメリカ人とは」といった画一的な見方は成り立たない場合が多く、その多様性を踏まえた見方が必要だということである。

我々はつい、例えばインターネットやブロードバンドや携帯電話の「人口普及率」や「世帯普及率」を見て、米国は進んでいるとか遅れているといった評価をしてしまうのであるが、そもそもこの米国の人口や世帯には多様なものがあるということを踏まえれば、普及率の単純な比較はできないのではないか、もう少しきめ細かな比較をする必要があるのではないかと思う。また、例えば米国におけるインターネット利用人口約6割という数字は、まだ4割の人が利用していないという捉え方もできるが、もう少し細かく見れば、とりあえず利用することが想定される層にほぼ普及した結果がこの数字だという捉え方もできるのではないか。

政策の選択と訴訟

政策面を見た際に強く感じるのが、これもよく言われることであるが、米国では政策の決定の過程における各議員の活動状況やロビイング・グループの主張などがかなりオープンになっており、結果的に政策の選択が国民に委ねられているという面が強いことである。また、いったん立法府や行政府が決定した政策の是非が、裁判で争われることによって覆る場合もめずらしくないなど、司法によるチェック機能も発達しており、マイクロソフトの独禁法訴訟のように司法が産業政策の一端を担っていると思わせるようなものまである。

ただしこれは一方で、時としてITインフラ整備や社会的規制などでスッタモンダを繰り返してなかなか先に進まないといったことにもつながり、また政権が交代する度に政策が大きく変化するということにもなる。ある種の「社会主義」に馴染んでいる日本人から見ると、見ていてじれったくなることもしばしばである。

では、米国型と日本型のどちらが良いのか。もちろん一長一短があり一概には言えないのであるが、ITのような技術進歩の早い分野では、少なくとも政策の評価を速やかにフィードバックして機動的に政策を見直していく仕組みが重要ではなかろうか。

政府に頼らない産業界

産業界には、政府からの規制を嫌い、政府に頼らず、失敗の責任は自分で取る(もちろん成功の果実も自分でしっかりいただく)という傾向が強い。サイバーセキュリティにしてもプライバシーにしても、基本的には産業界の自主的対応に落ち着いた。

その根底にあるのは、やはり米国は「自由の国」ということなのであろう。アメリカ人の(という画一的な捉え方は成り立たない場合が多いと上で書いたばかりなのであるが)「自由」に対するこだわりは、これだけ多様な人達がテロ事件後「自由の国アメリカを守るため」という理由で容易に一つにまとまったことからもわかるように、徹底している。この「自由」こそが、時として効率が悪いかもしれないが、長い目で見れば米国の生命線である「イノベーション」(“技術革新”という狭い意味ではなく社会システムなども含め広い意味での“新しいこと”)を生む源泉となる。

なぜ米国では次世代のITインフラを国家が主導して構築するという政策がとられないのか。(ゴアのスーパーハイウェイ構想も、結局は通信法改正による民間主導でのインフラ構築に落ち着いた。)そうした政策がすんなりと実現する時、アメリカはもはや本来の「自由の国アメリカ」ではなくなっているということなのであろうか。そういえば、法執行機関に一定の通信傍受権を与えた「米国愛国者法」が成立したのは、テロ事件直後の異様な雰囲気の中であった。

政府調達の戦略的活用

では、ITの発展において政府はどのような役割を果たすのか。R&D予算の支出と必要最小限の規制という役割に加えて、米国では国防総省等による政府調達が、ITを含むハイテクの振興に戦略的に活用されている。例えばIT関連では、連邦政府IT調達の1/2を占める国防総省のIT調達がソフトウェア工学を発達させ、IPの普及のきっかけを作り、オープンソースソフトウェアに希望を与え、今またIPv6を牽引しようとしている。日本でも、例えば電電公社が開発調達(民間企業との共同技術開発を行いその成果物を調達)によって電電ファミリー企業を育てたが、その特定企業育成面の是非はさておき、これが通信技術の発展に果たした役割は多大であった。

もちろん、政府調達をめぐってはWTO政府調達協定によって基本的には国内製品・サービスを優遇することはできないが、国防総省の調達については安全保障上の理由からその履行にあたり制限情報へのアクセスが必要となる調達契約から外国企業を排除しているという問題があり、日米の政府調達を必ずしも同じ土俵で議論できるわけではないことには留意が必要である。

大学の活躍

米国のIT関連の大学関係者は、皆元気がいい。そういう人しか表に出てこないということなのかもしれないが、やはりアグレッシブに研究費を調達してこれなければ生き残って行けないということではないかと思う。そしてこれが、産学連携が発達している大きな要因の一つになっている。

大学は、政府や産業界から資金を調達して研究成果を挙げそれを社会に還元するばかりでなく、その過程で育てた人材を政府や産業界に輩出し、大学発ベンチャーの母体となり、またe-Learningなど優れたITの実践の場となり、さらに社会人教育などを通じてITの普及啓蒙の役割も担っている。政府から見れば、多国籍企業に資金を出すよりも大学に出した方がよほど国内経済のためになりそうだ。

もちろん問題が無いわけではない。コンピュータ科学などでは大学院生の1/2がインド人、中国人等の外国人であるとも言われており、産業の空洞化や技術の空洞化ではなく人材の空洞化が大きな懸念となってきている。

おわりに

日米の違いについていくつか挙げてみたが、結局日本と米国では市場特性や政府と産業界との関係などに確かな違いがある。大学の役割など参考にすべき点を積極的に取り入れつつも、最終的にはこの違いの部分を如何にして強みに転換できるかに、ITを巡る日本の将来がかかっているのではないかと思う。例えば米国でよく引き合いに出されるNTTドコモのiモードなども、日本独特の消費者特性や通信キャリアと機器ベンダーとの関係があったからこそ世界に先駆けて日本で大成功したと言えるのではなかろうか。

こう考えると、やはり日本の今後の期待はユビキタス、IPv6、ITSといったところになるであろうか。単に最先端の製品や部品を作って輸出するということではなく、PCにおけるウィンドウズ、インターネットにおけるネットスケープ/エクスプローラなどに相当するような、ユビキタス/IPv6/ITSの爆発的普及の牽引車となる共通プラットフォーム・アプリケーションが日本から生まれて欲しい。そして、その分野における世界最先端の技術・製品・サービスの多くが常に日本国内(もちろん外資系企業も含めて)から生まれるような環境が実現することを期待したい。

どうもこの最終回は陳腐な感想文になってしまいましたが、御容赦ください。

長い間駐在員報告にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。


(了)



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